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第6回: タヒチ・トロット (2)
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【タヒチ・トロット 作品16】 (2)
(1)は
■発見前史
■初期作品の復活演奏
■編曲のいきさつ
■マコライ・マリコ
ニコライ・マリコ(Nikolay Mal'ko / ウクライナ人で、ウクライナ名はミコラ・マリコ Микола Малько)は、1883年ウクライナ生まれ、1926年にレニングラード・フィルの主席指揮者となりショスタコーヴィチの第1交響曲、第2交響曲の初演者となっている。さらにはムラヴィンスキーの指揮の先生でもある。しかし、ソ連体制の締め付けに嫌気が指して(あるいは恐怖を感じて)1928年に西側に亡命する。これは、ウクライナ人であることが大きな理由のひとつであるらしい。
1930年からデンマークに住んで王立デンマークオーケストラ、デンマーク放送管弦楽団などでさかんに指揮をするが、大戦の勃発のため、1940年アメリカに渡る。アメリカでは指揮者としてはいいポストに恵まれず(当時のアメリカは有名な亡命指揮者だらけだった!)、もっぱら指揮の先生をし、指揮教本の著作を残している。やがて1956年にオーストラリアのシドニーに移住し、61年にそこで没している。(筆者はオーストラリアのアマチュアオーケストラの知人から、シドニー交響楽団を振っていたマリコを聞いたことがある、という話を聞いてびっくりしたことがある。)名前の表記も西側に住み始めてからは「Malko」で通しており、日本でも「ニコライ・マルコ」と書かれることが多いが、ここではソ連時代のことゆえ「マリコ」と記す。なお、1959年に来日して東京交響楽団を振っているそうだ。
常任指揮者などの役職には恵まれなかったものの、戦後はフィルハーモニア管弦楽団とかなりの数の録音を残しているほか、2008年5月にはデンマーク時代の録音が大量にCD化されている。
■賭けの話
「君が天才なら一時間で編曲してごらん」と、マリコがショスタコーヴィチをそそのかした。この話を書いたのは、悪名高い「ショスタコーヴィチの証言」の著者、ソロモン・ヴォルコフである。
「証言」という書物については、地下出版などで流布されたあることないことを、ショスタコーヴィチの名を借りてヴォルコフが創作したもの、という偽書説がほぼ定着しているが、ここではそれについては論じない。
重要なことは、マリコの賭けの話が「証言」の中に出ていること。さらに、「証言」の出版は1979年10月だが、ヴォルコフはその前、さかのぼること1年、1978年、「Music
Quartery」誌に 「Shostakovich and "Tea for Two"」という論文を寄稿しており、これがすべての発信源となっているのだ。
【この論文は、現在入手手続き中につき、詳細は入手後に掲載します。】
で、さらに種明かしをすると、マリコの息子(ジョージ・マルコ、デンマーク生まれ、現在ニューヨーク在住、映画脚本家として「戦争の犬」などの作品あり)が、1966年、父の残した日記や書類、直接見聞きした言行をもとに伝記をまとめて出版しているのだが、この中で「ショスタコーヴィチのタヒチ・トロット編曲」のいきさつがマリコ自身の口で詳しく述べられており、自筆スコアがマリコの手元にあることも、その表紙写真とともに掲載されていたのである。
この中でマリコは、
・当時モスクワで上演され好評だった演劇の中で 「タヒチ・トロット」という曲が使われ、評判となった。
・ショスタコーヴィチの新作発表にあわせてオーケストラ用の編曲依頼をした。
・その他の作品と一緒に初演した。
・スコアが失われている、という表記を見て驚いた。それはわたしの手元にある。
と述べているのだ。
「その他の作品」とは、オペラ「鼻」の組曲(作品15a)、スカルラッティの作品の編曲(作品17)である。
というわけで、賭けの話はまったくなし。
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