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第5回: タヒチ・トロット (1)

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【タヒチ・トロット 作品16】 


■発見前史

その昔、日本国内でショスタコーヴィチの作品表として信頼されていたものは、昭和32年1月に出版された「ショスタコーヴィチ」(井上頼豊著/音楽之友社)であった。 巻末につけられた作品リストは、作品番号不明の最新作、交響曲第11番で終わっている。(この交響曲の初演はまさにこの本の発行された月。)

限られた情報の中で、ロシア・ソヴィエト音楽の専門家としての著者のもとには比較的多くの情報があったようだが、それでも、当時はソ連国内でも若い頃の多くの作品が演奏禁止状態にあり、このような作品があったと話題にすることすらはばかられる時代だったのだ。この著作の作品リストには『作品十六 タヒチ・トロット(管弦楽編曲)』とのみ記載され、もちろん本文ではいっさい触れられていない。

1970年代に入って、より詳しく記載された作品リストが西側の出版社(主に西独の Sikorski 社)からもたらされるようになり、1920年代のショスタコーヴィチが「ジャズ」と題する作品を書いていたことが明らかになり、さらに、「タヒチ・トロット」なる出所不明の作品が、「ふたりでお茶を / Tea For Two」の編曲らしい、ということが分かってきた。しかし、当時の(1970年代の)文献でも、このスコアは失われている、とのみ記されていた。

ショスタコーヴィチの死後、1977年になって 「DMITRY SHOSTAKOVICH COMPLETE CATALOGUE OF WORKS」と題された小冊子がモスクワの著作権管理公社から世界に配布され、それまで不確かな情報しかなかった多くの作品が曲がりなりにも世に明らかとなった。なによりもこの冊子には「自筆の保管されている場所」と「初出版」の情報が網羅されていたことが画期的だった。出版されていないものは「Manuscript Central State USSR Archives of Literature and Arts」という具合に保管場所が明示され、楽譜の存在が不明の場合は単に「Manuscript」とのみ書かれているのだ。(後年、これらの不明作品の大半が遺族の手元に保管されていることが明らかとなる。)

日本では、この編曲のいきさつがはじめて表に出たのは、あの悪名高いヴォルコフの「証言」だと考えられていたが、この書物の出版は1979年半ば、ニューヨークでのことである。ところが日本でこの編曲が聞けるようになったのは、1978年の後半(だと思う、確証はない)である。スヴェトラーノフ指揮の「交響曲第9番」のメロディヤ輸入版のB面最後にこの曲が収録されていたのだ。(このLPの日本盤は1980年発売)


■初期作品の復活演奏

作曲者最晩年にオペラ「鼻」の復活に尽力した指揮者のロジェストヴェンスキー(一般的なカナ書きを採用しています)は、作曲者の死を挟む数年間、初期の失われた作品、その後の忘れられた作品の掘り起こしに取り組み、断片のみの作品についてはみずから再編するなどして、作品リストのみで知られた幻の作品を次々と復活蘇演していった。

ロジェストヴェンスキーによる「タヒチ・トロット」の録音が日本に輸入されたのは、1980年の暮れだったと思う。当時、神保町にあった「日ソ図書」と「新世界レコード」の店頭に同時に出てきたと記憶している。レコードラベルには「1980年録音」と記載されており、一方、上記スヴェトラーノフの録音は「1977年9月、モスクワ音学院大ホール」となっている。スヴェトラーノフによる録音の方が先なのだろうか?

しかし、ソ連のこのテの記録がいい加減であることは常識でありアテにはならない。このロジェストヴェンスキーのLPは、8作品収録されて、それに対してオーケストラの名前だけで3つ、さらには所属不明の「Wind Orchestra」や、「Soloists Ensemble」も並んでいるので、録音日が別々であることが窺える。忘れられたショスタコ作品の掘り起こしと蘇演・録音のプロジェクトはロジェストヴェンスキーの意地と国家の威信がかかったものだったとされているので、おそらく初演初録音の栄誉はロジェストヴェンスキーのものであったろう。(ロジェストヴェンスキーのショスタコ蘇演演奏会は、詳しい内容と日付が明らかとなっているので、詳しく照らし合わせるとはっきりするだろう。)

これはずっとあとにロジェストヴェンスキーがらみの記事で書かれていたことだが、「タヒチ・トロット」については、初演者であるニコライ・マリコが終生その自筆譜を持ち歩いていたことが分かって、ロジェストヴェンスキー自らがマリコ未亡人に会って譜面を確認したということだ。(その自筆譜は未亡人の死後、スイスのパウル・ザッハー財団に提供され、作曲者の生誕100年にあわせてファクシミリ譜が出版されているが、これはあとでまた触れる話。)


■編曲のいきさつ

ショスタコーヴィチの「天才度」を伝える話としてつとに有名なのだが、確認のために記すと;

 指揮者ニコライ・マリコの「家で/夏の別荘で/演奏旅行先で」(資料によってバラバラ)
 当時流行のフォックストロットのレコードをかけ、ショスタコーヴィチがそれを聞いた。

 ショスタコーヴィチは、曲は気に入ったがバンド編曲が気に入らなかった。
 そこでマリコが 「君が天才ならば、今聞いたこの曲を編曲してみたまえ。
 そうしたら演奏してあげよう。ただし、編曲は1時間以内で。」と提案した。

 ショスタコーヴィチは45分(または40分)で仕上げた。

いろんなところでシチュエーションや言葉に違いがあるが、だいたいの流れはこんなところだ。

この話は、前記ロジェストヴェンスキー盤の解説にも、ロジェストヴェンスキーの署名入りで書かれており、誰もが信じて疑わないところだったのだが、90年代に入って、実はかなり事情は違う、ということが分かってきた。

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